一昨日。
新入学の18歳大学生が、鉄道に飛び込んだ。
汽車で移動する人にとっては大迷惑、家族にとっては一家離散、本人にとっては、あの世でドンナして過ごすのか・・・ぐらいの波及効果。
同じく一昨日。
長女の、どちらかというと部活熱心な高校において、帰宅部の次に多い、年に数回しか活動のない料理部の入部者が、異常に多いという今年の新一年生の盲流現象。
当然、熱血スポーツ部の存続の危機。
今日ちらっと読んだ本に。
生きる力って何?
それは悩む力のことなんだよって、書いてあった。
ふむふむと思った。
悩みなき世代、弱い世代といわれる世代、・・・そんなふうに育てる世代。
弱肉強食の食物連鎖にたとえるならば、一時的な過保護による弊害か。
まさに、長女がその「生きる力」世代である。
漢字、苦手。
計算力、いまいち。
人を蹴落としてでも・・もない。
あの、「生きる力」の時代。
学力偏重の社会において、さまざまな弊害が生じている。将来を担う若い人たちが、できるだけ早い時期に、多くの人との関わりかつ多種多様な経験によって、生きていく力が身についてゆくだろう・・ということだった。
わたしは、今でもその通りだと思う。
娘もその通りに育っていると思う。
果たして。
「悩む力」はどのようにして備わっていくのだろうか。
どこで悩めばいいのだろうか。
国家のかじ取りは、経済・教育と、付け加えて分相応の福祉が、バランスよく進んでいくことが大事である。
日本の論点。
経済のまわり方、動き方について、高3の愚息と話す機会が多くなった。
「国家」・・・砕けていえば、国と家である。
・・・かといって、これから時代はこれが儲かる!・・・という、ヒット策もないのであるが。